久々に、本当に久々に紙の本を読んだ。
その本は、私にとってはとてもむつかしい本だった。
作中のことばを借りれば、作者が私とは『異なる視点を持つ友人』だからだろう。
数年前から作者のことは認識している。私の中では、彼女はなにやら問題意識が高く、芸術に造詣が深いライターだ。おまけにTwitterのフォロワーは10万人をこえ、まさに「インフルエンサー」という肩書がふさわしい。他にも、「彼女のことを知らない私が彼女を説明する」言葉はたくさんある。ネットで検索すれば、それこそ複数の肩書や、評判の良い功績なんかがすぐに出てくる。
まだ発売されたばかりの作品だが、タイトルを検索すれば良い評判がいくつも並んでいる。一会社員からすれば、すごいことだらけだ。
そして、要は、そういうことなのである。
視点が異なるとはそう感じない。考えたことがないことはいくらか書いてあるが、読んだ結果その意見に反対だとは思わない。例えば私は、リデュース、リユース、リサイクルはわかるが、エシカル消費(倫理的消費)という言葉には馴染みがない。でも、書いてある内容は理解できる。納得感もある。
なんとなく、視点が異なるというよりは、視座が異なるという感じだ。自分に比べて、視座が高い。なんならちと高すぎるように感じたのは、私が認識すべき課題かもしれない。
もちろん全部が全部、そういうわけではない。共感できるところもある。例えば私は、愛知県の田舎から東京の芸術学部に進学した。それこそまさに、『ここじゃない世界に行きたかった』からだ。この点はきっと彼女と似たような考えがあったんじゃないかと思う。そしてそれは、何かが劇的に変わるんじゃないかと思っていた大学に入学しても、社会人になってからも続いた。
会社員になってから、15年を超える時間が過ぎ去った。私は華々しさとは真逆で、うまく行かないことが多かった。それでも今は、知識を増やし経験を積み重ね、色んな人に頼られ、人を率いる立場になっている。
そして、
「ここじゃない世界はない」
もしくは、
「ここじゃない世界には行けない」
ということにも薄々気がついている。「ここ」を自分が望む世界に少しずつ変えていくしか、抜け出せる方法はないのだと、もう知っている。
そこの点だけ切り取れば、むしろ共感しきり、なんて言えるのかもしれない。それでも、私はあまり共感はできなかったのだ。とても理解はできる。素晴らしい考えが書かれている部分もあると思う。なのにいまいち響かない。
それはきっと、私の視座が低かったり、想像力が欠如しているからなんだろう。
確かにアメリカ大統領選挙は大変な出来事だった。当時の報道でも話題になったが、議会が選挙される、犠牲者が出てしまう。これは歴史的なことだろう。歴史的に悪いことだ。理解している。
でも私には遠い世界の出来事で、確かに自分に関わっている部分があるのに、悲しみや苛立ちはなかった。「ひどい演目」のようなものを見ているような気分だった。
自分ごととして捉える想像力はない。遠くで行われている暴力に対して憤るような正義感もない。
とまあ、いくつかのことは考えた。
はじめて彼女の文を読む人には、良い本なのだろうと思う。ふだんネットを追わない人にこそ届くのが、紙の本なのだから。
逆に言うと、ネットの記事を読む人には物足りない内容かもしれない。もっと言うと、彼女の記事をたくさん読んできた人には物足りないかもしれない。大幅に加筆してあるにせよ、私は作者が「最近」興味を持って書いたことを読みたい、と思ってしまう。厳密に言うと、ネット上でこんな記事を書いたと知らされ、それが私にとって興味をひかれるような内容であるならば、なおのこと読みたいと思う。
視座が高い、内容が多岐にわたる。それを思うと、この本は、本一冊分を使った目次のようなものなんじゃなかろうか、というような感覚を持ったのだ。
作者は色んなことに興味を持って、こだわりを持っている。だから多分、この本に書かれていることは本当にごく一部のテーマをきりとったものなんじゃないか。
だから、色んな人が読めばいい。それぞれがこの本の中に、自分の気にいるテーマを見つけたならば多分、この本は役割を果たす。多分、本だけでは完結しない。
私はこの本を読んで、懐かしいものに触れたくなった。